「FONTEIN」 管理人Miniyon のホームページ。
hitomi ・ 渡辺多恵子 ・ 風光る ・ 新撰組 ・ YouTub動画 ・
日常の日記 ・ライブ ・舞台 ・観劇 ・感想 ・レポート など
   
a Manager :

管理人Profile など
 
hitomi : 音楽・ライブ・活動など感想
渡辺多恵子 : 風光る・flowersなど感想

新撰組




管理人Miniyon
見聞録




2000.04.01

京都に行った。
特別一般公開していたので、壬生屯所旧跡(八木家)見てきた。
この屯所は京都市指定有形文化財と指定されている。
当時、八木家は壬生村きっての旧家。
由緒正しい家柄だそうだ。
もとは「越前朝倉家」だったらしい。
織田信長から逃れた朝倉氏が京都の八木に家を構えたことから、八木家の歴史が始まったとのこと。
家紋はもちろん朝倉家の家紋と同じ。
当時、八木家は11代目八木源之烝應迅。
現在は15代当主。
御菓子屋司「京都鶴屋」(鶴壽庵)と名乗り、京の文化を和菓子に託している。
八木家の御菓子とお茶、おいしかった。
ちなみに、壬生屯所跡の隣りには、15代八木当主が実際に住んでるとのこと。
壬生屯所跡では「刀傷跡」が見られる。
刀傷跡はいくつかあったらしいが、訪問者が触るたびに傷が消えていったとのこと。
刀傷跡には触れるべからず、かな。
暗殺されたときに飛び散った芹沢鴨などの返り血も天上に残っていたが、13代当主(だったと思う)が天上を今のように
新しく直したとのこと。
畳、壁(塗り替え)、床の間は当時のものではないらしいが、他は当時のまま。
暗殺後、新撰組は八木家で寝泊まりする事はなかったが、会議場などには使ったらしい。
さすがに、血の飛び散った跡のある部屋では寝泊まりは・・・。
ですかねー。

暗殺当時、酒に酔った芹沢鴨とお梅、屏風をはさんで平山五郎が奥の部屋に寝ていた。
その隣りの部屋には八木源之烝應迅の息子 為三郎、勇乃助が寝ていた。
為三郎、勇乃助の隣りの部屋に八木源之烝應迅の奥方が就寝。
その隣りの部屋に平間重助が寝た。
その日は雨だった。
夜中、一人の男が芹沢鴨 他2人が寝ているのを確認。
その様子を奥方が息を潜んで見ていた。
背高、容姿などでその男は土方歳三であったと後に伝えている。
そのいく時後、4,5人の男が八木家に乱入、暗殺を行った。
だが、酒をほとんど飲んでおらず、芹沢鴨の部屋から離れていたところで寝ていた平間重助は、難を逃れることができた。
平山五郎、お梅はその場で即死、芹沢鴨は隣りの部屋、つまり為三郎、勇乃助が寝ていた部屋に逃れようとしたが、
為三郎、勇乃助の部屋の入り口にあった机につまずいたところを刺され死亡。
もし、時期がもっと暖かかったら、雨が降っていなかったら、雨戸を閉めることはなかった。
つまり、芹沢鴨は外に逃げれたのではないか。
とも言われている。
なにせ、神道無念流の皆伝の腕前。
そう安々とは殺られないさ。
と言うことは、これも運命なのか・・・。
その一部始終を見ていた奥方は、時が来るのを待って、次の代の奥方に言い伝えた。
今でも、代々その話しは言い伝えられているらしい。

伊東甲子太郎が暗殺された場所にも行ってみた。
だが、地元の人が言うには、実際には別の場所で暗殺され、そのあと引きずられて、現在の暗殺されたとされる場所に
死体が捨てられた、というのがホントらしい。
その話しがホントかどうかは定かではないが(歴史と言うものはそうであろう)、そうかもしれないかもと思い、
実際に暗殺されたらしいという場所にも行ってみた。
今は、跡形もない場所に・・・。

その他、島原など新撰組に関係する場所に行った。
池田屋の跡はなんとも・・・。
って他にも跡というのは結構・・・ってのが多い。
時は流れている。
それと共に失うものも多いっていうことかな。
残念ながら。
でも、それが時代・・・なのかも。