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新撰組




沖田総司


新撰組副長助勤―→新選組一番隊隊長(組長) ・ 剣術師範頭
天保十五年〜慶応四年(明治元年)(1844〜1868)

天保十五年(1844.12.02???)阿部豊後守の江戸屋敷で生まれる
初名を「惣次郎春政」 と称した(ようだ)
のち、「総司房良」と改む

父沖田勝次郎(らしい)の長男
幼少のとき、父(総司2歳のころ)母と死別れ
9歳のとき、江戸市谷柳町の甲良屋敷の天然理心流の道場、試衛館に、近藤周助邦武後周斎の内弟子(門人)として入門
近藤勇の義弟になる
18歳のとき、 天然理心流免許皆伝
斎藤一とは仲がよかった(らしい)
池田屋事件での昏倒は「喀血」ではなく、一過性「貧血」???(らしい)
慶応四年戊辰(明治元年)五月三十日(1868.07.19)、今戸神社の松本良順方(千駄ヶ谷植木屋平五郎の離れ屋かも)で
結核により病死。(享年25歳???27歳という説も)

沖田総司が病死した場所などについては3つの説がある
上記に記した2説の他、
千駄ヶ谷植木屋平五郎の納屋で、毎日庭先にやってくる黒猫を、なぜか斬ろうと思ったが、結局は斬ることができなかった
翌る日の昼頃、眼を閉じたまま、「ばアさん、あの黒い猫はきてるだろうなァ」といった
これが、沖田総司の最後の言葉であった
息を引き取ったのは夕方である
という3説目
このばアさんはミツが江戸を離れるに際して、沖田総司の面倒を頼んだ老婆で、黒猫と彼との出来事については<この話は、
介抱の老婆から、後に沖田林太郎(ミツの夫)に語った>実話であるらしい

沖田家菩提寺の東京麻布一向山専称寺に埋葬されている(現在(1999年)、住職が、
墓地の扉を閉ざして、一切、人を立ち入れぬようにしている。英断である)

沖田総司の墓は、柔らかい石質のため、風化がはなはだしい
昭和47年に屋根をかけて雨露を防ぐようにした

京都時代、ある女性と恋をしたが、理由はよくわからないのだが、近藤勇の反対で、泣く泣く別れさせられたという
ふたりの間に女の子が生まれたが、商家に貰われ、8,9歳頃まではわかっていたが、いつしかその消息は絶えたと
沖田家では言い伝えられている
または、近藤勇自信が口を利いて堅気の商人へ嫁入らせたという説も・・・

    池田屋事件のとき、資料によっては沖田総司20歳ではなく22歳となっている。
    また、享年27歳とも。
初名 惣次郎春政
改名 沖田総司藤原房良
戒名 賢光院仁誉明道居士
辞世の句 動かねば 闇にへだつや 花と水 (除五位 新撰組沖田総司)

土方歳三の「さし向かう 心は清き 水鏡」への返歌(とされる)

剣の腕前 天然理心流免許皆伝
容貌 ヒラメ顔。色は浅黒く、丈が高く肩がはり上がっていた
性格 いつも冗談ばかり言っていた明るい青年、酒は飲むが、あまり女遊びをしなかった
愛用の刀 菊一文字則宗


ミツ(光子) 総司の姉(長女)
天保四年四月八日(1833.05.20)生まれ
弘化三年(1846)14歳のとき8歳年長の井上林太郎を婿に迎える
明治四十年十一月二日午前十時ごろ、75歳で不帰の人に
キン 総司の姉(次女)
天保七年四月十一日(1836.05.25)生まれ
三根山藩士(現新潟県西蒲原郡)中野伝之丞由秀の許に嫁ぐ
明治四十一年(1908)四月二日に73歳で死去(午前十時頃らしい)
井上林太郎 沖田林太郎藤原元常
日野の井上惣蔵の弟
のちに新撰組隊士となる井上源三郎の家の分家筋にあたる
新徴組に加入し組頭を勤む
明治十六年二月十三日、58歳で死亡
沖田氏縁者
真明院照誉貞相大姉
四月廿六(二十六)日(慶応三年)
沖田氏縁者
大阪 酒井意誠吊

四月廿六(二十六)日(慶応三年)病死(らしい)
京都府下京区綾小路通りにある満月山普照院光縁寺に埋葬されている
光縁寺過去帳『往詣記』には「沖田氏縁者」とあるのみ
名前は伝わっていない
沖田総司の「内縁の妻」というべき存在(らしい)
長州藩の密偵という説も・・・
謎だらけの人物である


『沖田家文書』(沖田勝芳氏の記述)に沖田家について書かれている