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新撰組 |
沖田総司 |
新撰組副長助勤―→新選組一番隊隊長(組長) ・ 剣術師範頭 | |
天保十五年〜慶応四年(明治元年)(1844〜1868) | |
天保十五年(1844.12.02???)阿部豊後守の江戸屋敷で生まれる 父沖田勝次郎(らしい)の長男 沖田総司が病死した場所などについては3つの説がある 沖田家菩提寺の東京麻布一向山専称寺に埋葬されている(現在(1999年)、住職が、 沖田総司の墓は、柔らかい石質のため、風化がはなはだしい 京都時代、ある女性と恋をしたが、理由はよくわからないのだが、近藤勇の反対で、泣く泣く別れさせられたという |
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池田屋事件のとき、資料によっては沖田総司20歳ではなく22歳となっている。 また、享年27歳とも。 |
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初名 | 惣次郎春政 |
改名 | 沖田総司藤原房良 |
戒名 | 賢光院仁誉明道居士 |
辞世の句 | 動かねば
闇にへだつや 花と水 (除五位
新撰組沖田総司)
土方歳三の「さし向かう 心は清き 水鏡」への返歌(とされる) |
剣の腕前 | 天然理心流免許皆伝 |
容貌 | ヒラメ顔。色は浅黒く、丈が高く肩がはり上がっていた |
性格 | いつも冗談ばかり言っていた明るい青年、酒は飲むが、あまり女遊びをしなかった |
愛用の刀 | 菊一文字則宗 |
ミツ(光子) | 総司の姉(長女) 天保四年四月八日(1833.05.20)生まれ 弘化三年(1846)14歳のとき8歳年長の井上林太郎を婿に迎える 明治四十年十一月二日午前十時ごろ、75歳で不帰の人に |
キン | 総司の姉(次女) 天保七年四月十一日(1836.05.25)生まれ 三根山藩士(現新潟県西蒲原郡)中野伝之丞由秀の許に嫁ぐ 明治四十一年(1908)四月二日に73歳で死去(午前十時頃らしい) |
井上林太郎 | 沖田林太郎藤原元常 日野の井上惣蔵の弟 のちに新撰組隊士となる井上源三郎の家の分家筋にあたる 新徴組に加入し組頭を勤む 明治十六年二月十三日、58歳で死亡 |
沖田氏縁者 | 土 真明院照誉貞相大姉 四月廿六(二十六)日(慶応三年) 沖田氏縁者 大阪 酒井意誠吊 四月廿六(二十六)日(慶応三年)病死(らしい) |
『沖田家文書』(沖田勝芳氏の記述)に沖田家について書かれている |